西郷隆盛は言わずと知れた明治維新の立役者。
文政10年(1827)12月7日に、鹿児島城下の下加治屋町で7人兄弟の長男として誕生。第11代薩摩藩主島津斉彬に見出され、篤姫の輿入れや徳川将軍家の継嗣問題になど関わりました。
維新三傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)の一人で、江戸城無血開城、廃藩置県など新政府の改革は、西郷どんの器量に負う所が大です。
「西郷は薩摩の大宝である。しかしながら、彼は独立の気性があるがゆえに、彼を使いこなせるのは私以外いない。」と西郷を評価した斉彬の言葉が西郷の偉大さを伝えています。
薩摩が生んだ幕末の才女。
天保6年(1835)12月に、今和泉家第5代当主島津忠剛の長女として鹿児島市に誕生。幼少の篤姫は大変活発で、指宿の本宅にも度々訪れては、屋敷のすぐ前に広がる海岸でよく遊んでいたそうです。その後、嘉永6年(1853)第11代薩摩藩主島津斉彬の養女として鹿児島を発ち、近衛家の養女を経たのち、安政3年(1856)、13代将軍徳川家定と結婚しました。
家定の死後は天璋院と号し、その後も大奥に残り、後の江戸城無血開城にあたっては、新政府軍の隊長であった西郷に徳川家存続を願う書状を送るなど尽力しました。
幕末の薩摩藩を資金面で支えた豪商。
黒砂糖貿易や海外貿易で一財をなした海運業で「ヤマキ」の第8代目。第8代濵﨑太平次は、文化11年(1814)の生まれ。若くして商才を発揮し、傾きかけていたヤマキを立て直し、のちに日本最大級の船団を率いて巨万の富を築き、調所笑左衛門の右腕として、薩摩藩の財政再建にも大きな役割を果たしました。西郷隆盛も濵﨑宅を訪れた記録が残っており、太平次は篤姫の入輿の際にも大きな力を発揮したのではと伝えられています。
また、太平次は写真を撮られるのを嫌い、実際の写真は1枚も残っていませんが、「頭も太くて顔も体もまた極めて太く、眉毛は長い方で眼球はクルクルとして大きゅうございました」という古老の話が残っています。
西郷隆盛は犬好きとして知られていますが、多いときには10匹以上の犬を飼っていました。
明治7年(1872年)2月、西郷は13匹の犬と従者2人ともに、鰻温泉に1カ月ほど滞在しています。西郷は毎朝7時頃に起床し、朝食後、雨の日以外は4~5匹の犬を連れて開聞岳へ遊猟に出掛けていたようです。この犬達のほとんどが薩摩犬です。犬にはそれぞれ名前が付けられており、「シロ、サワ、ゴン、テツ、クロ、ツン、ユキ(雪)、ゴジャ(攘夷家)、ハヤ、ツマ、カヤ、ブチ、トラ(寅)」というような名前が記録に残っています。ほとんどの名前は毛並みなどの見た目から付けていたようですが、珍しい名前として「攘夷家(ジョウイカ)」は外国人にだけ吠える性質から名付けられたそうです。指宿市ではこれらの逸話にちなんだイメージキャラクターを作成しています。