薩摩半島の南端に位置し、古くから薩摩の海の玄関として利用されてきた山川港。
火口という独特の地形を利用した天然の良港として知られてい�0分≫
D オプション[鰹節工場見学]・・・≪約30分≫

関連史跡一覧
A 山川石の博物館めぐりコース
①さつまいも・ザビエル上陸の地(中近世の船着き場) ②琉球人墓碑  ③河野覚兵衛家墓石群 ④旧正龍寺跡墓石群 ⑤西南戦争戦没者招魂塚 ⑥地頭仮屋跡 ⑦武家屋敷跡に残る石垣 ⑧山川港最古の石敢當  ⑨正龍寺仁王像
B 黒潮のめぐみコース
⑨正龍寺仁王像 ⑥地頭仮屋跡 ⑩山川薬園跡 ⑪熊野神社 ⑫五人番(遠望) ⑬津口番所跡 ⑭レンガ造りのかつお節乾燥場
C 琉球コース
①さつまいも・ザビエル上陸の地(中近世の船着き場) ②琉球人墓碑 ③河野覚兵衛家墓石群 ④旧正龍寺跡墓石群 ⑤西南戦争戦没者招魂塚  ⑧山川港最古の石敢當 ⑮唐人町跡 ⑯蔵ン筋
①さつまいも・ザビエル上陸の地
現在漁船などが停泊する浦向港は、山川を代表する港のひとつでした。ここに宝永2(1705)年、豪商・河野家の船の水夫だった前田利右衛門は、琉球から甘藷の種芋を持ち帰ってきました。後に甘藷は全国へ広がって行くことになります。またキリスト教を布教するために、天文18(1549)年に、鹿児島を訪れたザビエルもまず山川のここに上陸したといわれています。
②琉球人墓碑
薩摩藩による統治以降、山川港で亡くなった約5百人を弔った琉球人墓地が多数ありましたが、1880年、福元墓地の一角に西南の役戦没者招魂塚を建てた際に撤去されました。近年、琉球の人々を慰霊しようという機運が高まり、琉球侵攻から400年の節目の2009年11月29日に「望郷の碑」とともに鎮魂墓碑が建立されました。
③河野覚兵衛家墓石群[指宿市指定文化財]
山川の河野家は、南西諸島から集積された藩の専売品等を上方まで運ぶ海運業者として、島津家から招請された、伊予国の水軍の末裔と言われています。代々「覚兵衛」を称する河野家は、薩摩藩の貿易の一翼を担いました。墓石は五輪塔で、歴代当主と家族の墓が並んでいます。
④旧正龍寺跡墓石群[指宿市指定文化財]
正龍寺は、明徳元(1390)年、名僧虎林和尚が招かれて再建されました。その後多くの名僧を出し「薩摩の文教の府」ともいわれ、また貿易港山川港に入る外国船の外交文書の授受にあたっていました。明治2(1869)年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となりました。そのとき、散逸していた関係墓石を集めたのがこの墓石群です。
⑤西南戦争戦没者招魂塚
山川から西南の役に出兵し戦死した人々の魂を鎮めるために建てられました。石碑の側面には、死亡した人々の名前、死亡した場所、年齢等が刻まれています。「西南の役」が始まった時は、山川からも若い青年が、西郷さんに味方して多く参加しました。ここは、少し高台なので山川港の町並みがきれいに見えます。
⑥地頭仮屋跡[指宿市指定文化財]
江戸時代、薩摩藩の直轄領であった山川郷には地頭仮屋が設置され、噯(あつかい)・横目・組頭といった三役によって政治が行われていました。現在は支所の東側と西側に、当時を偲ばせる石垣が残っていて、これらは山川の象徴でもある山川石によって形成されています。
⑦武家屋敷跡に残る石垣[指宿市指定文化財]
薩摩藩は一国一城令(1615年)により、鶴丸城以外は全て棄却し、それに代わるものとして外城(とじょう)と呼ぶ「麓」を置きました。そして、「御仮屋」とか「地頭仮屋」といわれる在地役所を中心に、その周辺にイヌマキの生垣と石垣造りの武家屋敷の集落が形成されました。山川でも仮屋地頭を中心として城下町山川の面影を武家屋敷通りに残しています。道路に面して築かれた石垣には山川石が使われています。
⑧山川港最古の石敢當
「石散塔」は中国伝来の魔除けの石塔です。町中を徘徊する魔物は直進する性質があり、T字路などの突き当たりにぶつかると、壁などを突き抜け家に入って来るといわれています。そこでこの石塔を設け魔物の侵入を防ぐのです。「石敢當」の文字については、中国の泰山にいた豪傑または神様の名前といわれています。この石敢當は山川港で最古のものといわれています。
⑨正龍寺仁王像[指宿市指定文化財]
慶長元(1596)年に近世儒学の祖とされる藤原惺窩(せいか)は、この寺を訪れ、ここで研究されていた学問水準の高さに驚愕したと言われています。このように山川港を代表する寺院でしたが、明治2(1869)年の廃仏毀釈によって廃寺となりました。現在は浄土真宗本願寺派の寺として創立されていますが、当時を偲ばせる正面の仁王像があります。この仁王像は、旧正龍寺の正面に建っていた物で、廃仏毀釈での難を逃れて無傷のままの貴重な像です。
⑩山川薬園跡[指宿市指定文化財]
万治2(1659)年、藩によって薬草研究のための薬園が開設されました。その後に、対岸の佐多や鹿児島城下に近い吉野にも薬園が設置されましたが、その始まりでもあります。当時薬園では、リュウガンやレイシ、ハズ、キコクなどが栽培され、現在はリュウガンのみが残されています。また敷地は明治以降から昭和44年まで山川小学校として利用されていました。
⑪熊野神社
御祭神は速玉之男神などで、創建年代は不明とされています。島津氏による崇拝が篤く、文明4年、大永2年、天明7年などの時期に再興されています。また慶長14(1609)年の琉球出兵に際しては、島津家久によって戦勝祈願祭りが執り行なわれています。
⑫五人番(遠望)
江戸時代、鎖国政策の日本では外国の船の出入りは禁止されていました。鹿児島湾に不審な船の出入りがないかどうか見張るための番所が置かれ、5人の役人が仕事をしていたため五人番とよばれています。
⑬津口番所跡
1411年、島津久豊が山川港に津口番所(船舶の出入り等を改める番所)を設置しました。
⑭レンガ造りのかつお節乾燥場
現在は一棟だけになったが、港周辺には多くのレンガ造りのかつお節乾燥場がありました。正確な建造年は不明ですが、昭和10年ごろにはあったということです。山川のかつお節製造は明治43年(1910)年、伊予(愛媛県)から製法の指導をうけて始まりました。
⑮唐人町跡
山川港は琉球だけではなく、中国、東南アジア、ヨーロッパとも貿易によりつながっていましたた。唐人町は、琉球人、明国など異国人の貿易商が住んでいた町です。唐人通りを中心にした一画にありました。
⑯蔵ン筋
薩摩藩の南方貿易に貢献した山川港では、「河野家」をはじめとする豪商が多く活躍していました。ここには、琉球・奄美諸島から得た黒糖や専売品を、一時的な集積場として保管した蔵が立ち並んでいたとされます。

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