薩摩一の宮 枚聞神社と、秀峰開聞岳のすそ野開聞地区に残る数多くの神話や歴史を、
地元ガイドと一緒にめぐってみませんか?

かいもん伝え歩きの会概要

■実施日
年末年始(12月29日〜1月3日)他、イベント開催日等を除く毎日実施。事前に予約が必要です。
■実施時間
案  内:午前 9:00〜12:00
     午後 13:00〜16:30(15:30最終受付)
申込受付:9:00〜16:30
申込締切:案内日の前日までにお申し込みください。
■案内費用
大人1名 500円(中学生以下無料)
※当ガイドが行う散策コースは、一般道を歩行いたします。
 お客様へは傷害保険への加入をお願いしております。
■申込方法
所定の申込用紙にご記入いただき、FAXいただくか、お電話でお申し込みください。
■案内内容
30分・・・薩摩一の宮 枚聞神社見学コース
90分・・・開聞の歴史満喫コース
関連史跡一覧
①枚聞神社 ②舜請法印の墓 ③瑞応院 ④馬場 ⑤凱旋門
⑥一の鳥居跡 ⑦上の仮屋 ⑧鐘撞坊跡 ⑨玉の井 ⑩拝顔 ⑪京田 ⑫御返事河
「歴史と神話の里めぐり」散策コース
☆30分コース 両コースとも枚聞神社集合・解散
☆90分コース
  • 注意1:散策コース例の時間はお手洗い等を含みません。ご見学の際は上記コース例の所要時間に10〜15分程度加算した時間が滞在時間の目安となります。また、団体や足の悪い方がいらっしゃる場合は時間に余裕をもってお越しください。
  • 注意2:コースは最大で2.0km歩きますので、動きやすい格好でお越しください。
  • 注意3:当散策コースは一般道を歩きます。交通安全には参加者自身で十分にお気をつけください。尚、車を使用した散策はできません。また、雷雨・豪雨や台風等により、ガイド又は事務局が危険と判断した場合は散策を中止することがあります。
薩摩一の宮 枚聞神社
太古より「和田都美神社」とも言われ、航海安全の神として崇められ、また、従4位以下の神階を受け、よほど早くより朝廷の崇敬が深かったものと思われる。708年、勅宣により建立され開聞岳裾野に鎮座していたが、貞観16年(874年)の開聞岳の大噴火により揖宿神社の所に一時避難、その後、今の場所に移されたという。祭神は「大日霊貴」(またの名を天照大神)を始め、九柱の神々を祭っている。当社は1571年、伴姓 頴娃氏のお家騒動により焼失。1610年、島津義弘公により再興された。本殿の造りは入母屋式妻入、総朱塗で屋根には千木堅魚木を配し、島田修右ェ門の作といわれる雲龍柱に前方屋根は支えられている。本殿は、県指定の文化財になっている。
舜請法印の墓
昔、枚聞神社の大祭前夜には御神体に化粧をさせ、衣を着替えさせる習わしがあった。その役目を担っていたのが舜請和尚であった。ある年、慢心からか作法に手抜きがあり、彼の眼は神罰によりつぶれてしまった。1420年、この地、東坊に石室を作り入定。神社に向かいざんげして、リンを鳴らしながら死んでいった。リンは7日間、地中より聞こえたという。131才であったといわれている。
瑞応院
坊津一乗院の末寺でもあり、枚聞神社の別当寺として、652年、真言伍祖の一人 知通により開山されたが、知通が大陸に渡った為、数百年もの間廃寺になっていたのを舜請法印により再興。以来、明治の廃仏毀釈まで六十余代の住職によって守られてきた。現在、御本尊は廃仏毀釈の難を逃れ、坊津久志の広泉寺に祀られている。
馬場
宮馬場とも言われ、大祭の時は流鏑馬や早馬が行われていたという。島津義弘公は社殿を再興し、流鏑馬を行って士気を高め、琉球征伐に出かけたという。1619年以降、流鏑馬の行事は途絶えている。
凱旋門
明治の日露戦争で大勝利をなし、輝かしい武勲をたてた郷土の兵士を迎える為、この門を建てた。以前は今より数十メートル北にあったが、県道拡張の為現在の所に移転した。
一の鳥居跡
昔、宮馬場の北端に一の鳥居はあったが、台風によって倒壊したという。数十年前まで基礎石は残っていたが、道路拡張の為取り外された。近くには仁王像の残骸も確認された。
上の仮屋
この地に、枚聞神社大祭に訪れる勅使達の御仮屋があった。道路を挟んで、西側に三棟の御仮屋と東側に御神馬舎があった。ここには、瑞応院と書かれた吸いもの椀が今でも残っている。
鐘撞坊跡
瑞応院関係の鐘楼があった所で、近くには鐘撞役をしていたと思われる人達の住居もある。山中には墓石供養塔等、多数残っている。また、瑞応院14世頼栄法印の墓石もここから見つかっている。
玉の井
兄の大切な釣針をなくし途方にくれていた山幸彦(彦火々出見の尊)が、神仙・塩土老翁の導きにより間無堅間の船で辿り着いた竜宮城の門前の井戸という。水くみに来た海神和田津見の神の女官と出会い、さらに和田津見の娘、豊玉姫と出会う事になった所。
拝顔
地元の人は「オガンガオ」と言っている。昔、このあたりは竜宮界であり、竜宮の大手門があった場所ともいう。彦火々出見の尊と豊玉姫が初めて顔を合わせた場所でもあるという。
京田
和田津見の神の宮殿の跡といわれ、彦火々出見の尊を招き、饗食を取った宮殿、すなわち「饗殿」が地名のおこりという。また時代が下って、この地方に残る伝説 大宮姫もこの地に仮宮殿を作ったといわれ、そのときは「京殿」とも書かれた。その後、宮殿の跡は法華寺となり「経殿」とも記述されるようになったという。
御返事河
御幣子川とも書く。彦火々出見の尊と豊玉姫は仲むつまじくなり、彦火々出見の尊より結婚を申し込まれ、姫がそれを受け入れたところでもあるという。そして、和田津見の神は入野に二人の為の新宮殿を作ったという。この地を婿入谷と呼んでいる。

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